また終わるために

いっしょにすごしたときめき

波長、霊長類というか、おしゃべり大好きおばさんの神秘

近所におしゃべり大好きおばさんがいて、毎日かかさず隣近所のこれまたおばさんとしゃべっている。声がよく通るので、部屋にいてもそのひとがまたおしゃべりしているとわかるくらいなのである。

何を毎日そんなに話すことがあるのか謎なのだけど、これはブログに書いたら気分いいだろうなあと思いめぐらして廊下を歩いていたら、やけにおしゃべり大好きおばさんの声が聞こえなくなって、変だと思いつつも、私は夢中でブログ、ブログと思いめぐらしていた。すると、おばさんがいる位置まで来てすれ違う時、なんと視線がぶつかったのだ。相手はすぐに私から目をそらしてまたおしゃべり大好きおばさんに豹変したけども、なんだったんだ、あの一瞬間は。私が彼女のことをブログに書こうと思いめぐらしていたから、何か波長がでたんだろうか。霊長類の神秘を感じた。

私はもう、それは私にはどうしようもできないからと、放念していい

夢を見て起きた、4:00am。

私はインナーチャイルドのメッセージなんていうたぐいをあまり信じないのだが、時々夢を介してそのメッセージがやってくるんだというのは信じずにはいられない。今回の夢はそんな感じだったから。

小学校3年生くらいの私は、弟の栄養状態を気にしていた。とくに彼が栄養失調だったのではないというのに、私は授業参観に来ていた父親に「昼はたんぱく質を食べさせてあげて。肉うどんとか、卵丼とか」などと、自身の授業に遅れているのにもかかわらず、耳打ちしていた。

私は授業に遅れた。国語の授業だった。朗読は大きな声でしたと思う(覚えてない)。どれだけ今の私が大人ならよかっただろうと、自分が子供であることをとても呪っていた。私は自分のことを投げ出しては、父親、母親、弟のことを、なんとか立て直さないといけない、家族の崩壊を止めないといけない、と考え、苦しんでいた。弟のつらさも、私のつらさも、苦しかった。

私は私の勉学を投げ出してまで、家族のことを優先していた。私はなんだったのだろう、子供らしい子供のことをできず、大人のように力を発揮できず。

戦略的いい人

私は、いい人とはよそおいのことなんだと思ってゐて、それはなにも洋服とか外見や身だしなみだけじゃなく、行いそのものをよそおう、とでもいおうか、たとえそれがこころを伴わない偽善だという自覚が”伴って”も、それがいい人という評価や恩として自分を彩る要素にはなりうるのだ。

私は、ボランティア活動を、してゐる。けど、それはなにも義侠心や正義の心からの派生なのではなく、彼氏に裏切られてつらかった心を、新しい縁でなんとかしたいという下心からの行動であった。きっかけは、下心なんだ、要するに。そして、いいことと世間で一般的に評価されていることは、下心があれば、続きやすいのである。

よって、戦略的にいい人を履行するには、下心が不可欠であるといえる。つまりそれは戦略的に下心を持つ=いい人になろう、と、試してみることなんじゃないかなと、思うまきのであった。

だって、「趣味はボランティアです」っていかにも自分をいい人に寄らせる言葉ですやん。言ってみたかったんだよ。

わたしたちが正しい場所に花はぜったい咲かない

わたしたちが正しい場所に

花はぜったい咲かない

春になっても。

わたしたちが正しい場所は

踏みかためられて かたい

内庭みたいに。

でも 疑問と愛は

世界を掘りおこす

もぐらのように 鋤のように。

そしてささやき声がきこえる

廃墟となった家が かつてたっていた場所に

 

 

     イェフダ・アミハイ『わたしたちが正しい場所』

制服が邪魔をしない男子のすけべ事情

結論からいうと、女性が規範や常識に特化すればするほど、男性のすけべは逆説的に衝動として起こるんですよ。たとえば、女性が制服に身を固めていたりすると、それを破壊したい気持ちになるのは、まさに逆説ですよね。すけべは破壊性も含んでいると思うので。

ウィーク・ポイント返上キャンプ

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キャンプ用の必需品を、100均で揃えたけども、準備っていつまで経っても完了したくないよな、っていうくらいには、当日が不安だし楽しみでもある。

他にも必要なものはあるかな?現地で最低必需品(テントとか)は、用意してくれるものの、荷物が多くなりそうだ。

ゴールデンウィークは、私にとって、ゴールデンウィーク·ポイントでしかなく、つまり弱点なのであった。どこへ行ってもお金がかかるし人は多いし、つらかったのである。

ところが、今度の土日は森へ行く。日課の習い事を休んでまでも。ああ、森、何があるだろうか。頭の中にRPGの曲が流れて、スライムに遭遇したらとにかく仲間にするのが大事だな、とか考える。

憎しみのスゝメ

不誠実は、人を切るし、誠実は、人を繋げる、というのが私のファイナルアンサーかもしれない。

但し、不誠実による悔しさや憎悪があれば、それは人を生かす。そもそも政治の話をして恐縮だけども、例えばとして、政治でも、愛が蔓延していたとしたら、何も生み出さないだろうと思う。が、憎しみこそ人を動かし政治を動かすのだと思うのです。

だから、不誠実で傷つけられたと思ったなら、憎むことで自分を推進していけばいいのかもしれないだろう?そういう方法だって別に禁止されてはいない。

誰も報われないのではない。憎しみは、時に傷つけられた心に成長をもたらす。

成り行きの力に身を任せる力

成り行きの力って、いわば「こんなわたしだけどなんとか生きてきたな、よくやったな」っていう原動力のことかなって思うんですね。

たとえば、読書行為ひとつとっても、成り行きの力があるなあってついさっき気づいたんですけども、やっぱりこの成り行きの力に身を任せる力、みたいなのもあるんやろなあ、と。それって、タイミングを見極めることも、あと、信じることも、必要になってきてめちゃくちゃ難しいだろうけども、いちどその快楽を知ると、おそらくもうほかのもので代替不可なくらい暮らしの質を良くも悪くも変えてしまうと思います。

で、なにかまあ知識の向上とかでも例にできるだろうけども、この成り行きの力の底に沈んでいるのが知識っていう砂金なのかなって思います。

なにがいいたいかっていうと、もっと肩の力抜け、私。

人生コーディネート

なんかずれてる人に出会うたびに思うのですけど、人生って金銭的な豊かさとか、有り余るほどの時間とかも大事かもだけど、やっぱりコーディネート力がものを言うなあって思うんですよね。

たとえば、公共交通機関にすべきか、タクシーにすべきか、っていうのも、時と場合によるわけじゃないですか。その時にいかに効率よく、しかも、金銭的負担も最小限にして、とかみたいなコーディネート(=調整)ができるかっていうのはその人のセンスの出しどころだと思います。(出しどころ!?)

で、そういうのがうまくできる人ってめちゃくちゃ重宝されるだろうし、まあ端的にいってかっこいいですよね。

お金がたくさんあるとかより、時間がたくさん余ってるとかより、それのコーディネートの仕方にその人の生活の質みたいなのが決まる気がします。

で、ずれてる人って、たとえば、私が「ブログにコメントなくて、さびしいんですよ」っていってみたら、「読みました。」っていうだけのコメントする人みたいな。そうじゃねええええええええええええええ!!ってなりますやん。

これは私のコーディネート力がないのか、その人のコーディネート力がないのか・・・・・・。

まあ、楽しかったよね。

空のかけら、ひらひら

ある日から、自分の部屋の玄関前の廊下に脈絡なく、薄青いごみ袋が未使用のままで漂流してくるようになって、なんだこれ?って思ってたんですね。で、未使用だからどうしよう、別の部屋の方のものかなって考えるじゃないですか。それで、とりあえず、気味が悪いから、なかったことにして捨てたんですよ。

で、また次の日に同じような感じで、同じ薄青さのごみ袋がまた未使用な感じで漂流してて、こんなことが3日間くらい続いて思ったんですけど、あ、これはさいきんの空のかけらがひらひらやってきたんだな、って考えるようになってきて、だんだん捨てるのがなんか忍びなくなってきたんですね。でも捨てたけど。

いい天気が続いて、それで空の片隅からその青さのかけらがひらひらやってきたんなら、しょうがないか、と。まあ、捨てたけど。

そしたら、これまたある日から突然やってこなくなって。あれはなんだったんだろうなあ。まあ、また来られても、捨てるだけだけど。