また終わるために

いっしょにすごしたときめき

冬の旅だち、ありがとうおうち

旅は帰宅して自宅をほっとするものだと感じるためにあるのだと、わかる。一息ついて、まぶたに映写される旅情に心を憩わせながら、こここそ私のホームだ、と安心するための旅立ち。歌もそうだろう、沈黙を聖なる祈りだともう一度気づくためのものだろう。

寒かった、雪が隅によって、汚れているものもあった。道は人のかためたアスファルトが中心にいくほどむき出しになっていた。しかしわたしも彼も幸福だった。彼にはもう私にカッコつける無駄を感じないらしく、子供っぽくはしゃいでいた。と、思うと、雪とその冷気に言葉を滲ませて、静になることもあった。私たちの口唇からでる息は、白い。それらが、冬の空へとのぼっていった。

温泉は心身ともに芯から温めてくれた。宿への帰り道は、冷たい風にさらされているにもかかわらず、わたしたちふたりはホットだった。足から愉快にからんころん、と音がなる……冬のユーモア。温泉は、小さなタオルをもって入るという暗黙の作法があった。一度初日に忘れて入ったとき、肩身の狭いおもいだった。城崎にて、たらふく食べた。蟹も、肉も、冬のソフトクリームも、至極快楽の味だった。

嬉しいね。人生って、嬉しいね。私たちはそう話した。あるいは、そう、目配せしあった。さびしい雪、けど、一人ではない。嬉しいよ。ただいま。