また終わるために

いっしょにすごしたときめき

夏の忘れ形見、あるいは、夢の残骸、その呪い

父親が母親に暴力をふるっていた。父方の親戚一同が母親をリンチしていた、とくに去年亡くなった父方の祖母がその首謀者だったんだけど、私はいまだにその祖母が憎くて、死んだ後でも死ねと願うほどだ。記憶が忌々しいのである。彼女は死してやっと平和や平安に貢献することができたという報われず救われない人間だ。

私の父親もきっとそうだろう。いなくなったほうがいい人間は山といるはずだが、神はどうして生かすのだろう、だれかを、だれかの美しい希望や未来を犠牲にしてまで。

父親は私の小学5年生だったころに母親以外の女性と関係していた。夜中になっても帰ってこなかった。弟と一緒にゲームをして孤独で大人のいない――守られていない、そして愛されてもいない子供の時間を過ごした。私はしだいに小学校で孤立していった。うまくいっていたはずの友人関係にも亀裂が入っていったんだ・・・・・・仲間外れにされたり、いじわるされたり。子供は愛されていない存在の同族に手厳しい。私は、親から愛されない――それはその頃の子供にとっては孤絶を意味する――子供だった。

見捨てられた子供。私はそれだった。

中学1年生の最後に、母親が理不尽にも家を出て、海外で生活するようになった。私は精神の支柱を失った気持だった。とうとう正義からも見捨てられたのだ。

父親のもとに残ることになった私は無力だった。無力。どうしてこんなことになったのかと本当に悔しくてやりきれなかった。私はその時に自殺していたほうがよかったのかと今でもわからず自問するが、答えは、もう遅くなって、のうのうと生きている自分自身を呪うだけだ。ただ、私を生かしていたのは今でもそうだけど、作家になって自分の言葉で父親と家庭で起こったあの苦しみを世界に知らしめること、白日の下にさらすことだけが希望だった。書きたいものがあるのでもなく、立場や地位を得て、私は父親を裁きたい一心で作家を夢見ていた。

今は、その思春期という青春の忘れ形見が、あるいは夢の残骸が、私をさまよわせている。私はあきらめてもあきらめきれず、あきらめきれなくても、あきらめなくてはならないから、社会人になりきろうとしても、苦し紛れの中で死んでないだけ。呪いなのかな。

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