また終わるために

いっしょにすごしたときめき

喪は摩耗しない

喪は、変わることはないが、散発的であるとわかった。喪は摩耗しない。なぜなら、持続したものではないからだ。

会話の中断や、うっかりと話がべつのものにとぶことが、社交上の喧騒や不快から生じるときには、鬱状態はひどくなる。だが、そうした「変化」(散発的なものを生みだす)が、沈黙や内面に向かうときには、喪の傷は、より高度な思考へと移行してゆく。

 

 

  ロラン・バルト

 

 

天使のわけまえのように裏番組】

眠気と戦っているときは、とても死にたくなるんだけど、もしかして私にとって死ぬこと≒眠ることなのかな。

天使のわけまえのようにふと会話が途切れた時、眠気に襲われるホワイト・ノイズ溢れる午後、夜のとばりにさらわれる8:00PM。そういうときに、喪は新鮮な状態で現れて、私は・・・・・・その声を聴きたいと願う。

喪とは夢の中の懐かしい声みたいなものに対して花を手向けていくことなんじゃないか。夢の中でしか、聞こえない懐かしい声。そういうものに耳を澄ませて、この悲しみをエクリチュールに組み込むこと――私の最近はそれに費やされている。

エクリチュールは、こんな私すら浄化するようで、いうなれば上品の極みだ。働かずにいられない卑しい人間の、汚れを浄化する。

あの人は自分をいつも屑だと言っていた。もしお金をためて大学進学を果たしても、そのままかもしれなくて、人間はただこうして言葉とエクリチュールに自分自身やその悲しみを組み込んでいくことでしか、浄化されないのかもしれない。

生活は生活を浄化しない。これが私の持論です。