たとえばね、と彼は切り出した。
たとえば、いざ”しよう”ってときに、相手の女の子のアイシャドーの色あいだったり、服装だったり、まあ下着の色やデザインなんかが僕を駆り立てると同時に、足のにおいが強かったりすると、とたんになえるんだよね。
ふーん、と私はうなずく。セクシャルなことと書くことというのは同じで、いざという時になにか、符号のような・示し合わせのようなものがないと、少なくとも私は”その気”になれない。けっこうデリケートなんだろう、みんな、そうなのかもしれない。
どうでもいい女の子となら、わりとすんなりいくことも、ずっと片思いしてた子とか、本当におれの支えになってくれるような大事な子とは、ぎくしゃくしちゃうこともあるんだ、と彼はつづける。いつもの、僕、という一人称が、おれ、になっていることがちょっと私の耳をうった。
そうだよね、たとえば私は芸術作品(まあ、小説でも音楽でも漫画でもなんでも)に対して似たようなことよくあるよ。それほど関心のもてないものに対する方が、どちらかというとうまく読めたり聞けたり見れたりすることができて、感受性ってほんとその時の才能なんだろうなって思う。気分屋って言葉が嫌いなだけかもしれないけれど。だから私は、売られた喧嘩を買うつもりで感応したらいいのかなって考えたんだけど・・・・・・、芸術から喧嘩売られるっていうことがそもそも光栄なことだから、めったにないんだよ。私たちは人間で、花のようにただ咲いているだけで花、というわけにはいかない卑しい存在だから。
まあ、そうだね。
うん、そうだよ。
窓の外では春なのに冷たい風がひゅう、と音を立てた。私たちは、別々の傘をさして、その場をなにごともなく後にした。シーツの乱れも、潮の満ち引きも、そのまま、そのまま、そのまま。