また終わるために

いっしょにすごしたときめき

ベルセルクについて語るときに我々の語ること ~サバイバーとスライバー~

三浦健太郎ベルセルク』について、ブログで評論してほしいといううれしい要請がフォロワーからあって、私は今、”そうだ!京都へ行こう!!”という心持でペンをとっている。ありがとう!

端的に言えば、『ベルセルク』は、アダルトチャイルドあるある、の顕在化漫画だと思ってゐて、「自分には本当の話であり、ライフストーリーであり、だけど、人に話すと必ず気のせいだよ、と言われるような事柄」つまりは、「気のせいだよ=フィクションや思い込み」と言われる種類の、どちらかというと悪い事実をファンタジーという切り口で思い切って本当にフィクションにしてしまうことで、その悪い事実を現実のこととしてあぶりだしているのである。

とくに、アダルトチャイルドにありがちな、時には自分自身から選び取ってしまった・あるいは、時には自分の背後にある手が伸びて選ばれたマイナスを、なにか一つのただならぬ大きな事柄を”かなえて”しまうことで、すべてのマイナスカードをプラスに変えようと動く情動や行為について、『ベルセルク』は非情なまでに生々しくあぶりだして描いている。

よくここまでアダルトチャイルドの情動がわかるなあ、と感心した、初読の時に。ガッツとグリフィスは、アダルトチャイルドである人物の、両極に位置する同一の自分自身であり、その葛藤に耐えられなくなったさまが蝕という事象で表現されているんだと思う。葛藤に耐えられない状態というのはいわば神経症のことである。

アダルトチャイルドは、おおよその場合において精神疾患に悩まされていることが多い。私もその中の一人である。

ガッツもグリフィスも、どちらもサバイバーであり、スライバー(=成長するもの)という正体からはとても遠くに位置している。ガッツはファルネーゼに、祈るな、という。両手がふさがって戦えないからだ。戦うことを日常にしているガッツ。グリフィスも同じだ。夢のために捧げて、犠牲をいとわない(内心はいろいろあっても)姿勢は、まるでアダルトチャイルドの人生に対する覚悟や夢そのものである。

アーメン。