また終わるために

いっしょにすごしたときめき

平和を意志し、その灯りを永遠に分かち合っていくこと

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原爆ドームをみて、被爆や戦争という地獄は絵空事でなく、事実なんだという認識がよりいっそう肉づけされたようでした。


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平和公園は(私はそう呼んでいる)、健やかな幼子の歩みの元にも被爆で殺された人々の命が、匿名のまま永眠しているのだと今日初めて知ったんです……衝撃でした。白骨遺体がおびただしい数でいまだに広島市内中から見付かるという、リアリティ。私は、この話を公園にいたおばあさんの口から伺ったのですが、「殺された」という動詞にハッとしたんです……戦争は、れっきとした殺人罪なんだということに。この言葉の使われ方、おばあさんの口ぶり、私の中で微妙に変化した認識を刻んでおこうと思いました。


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祈りの神殿、という言葉が咄嗟に出るほどしずかでした……しかし、しかし、眠っているのではない、いまだに、そして永遠に祈り続けているままの、静けさ。私の声を圧するほどの祈りの静けさ。忘れてはならないという意味の。


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瓦礫は核爆弾落下の瞬間のまま残されている。私は平和のうちで生を授かり生きてきたから、一生広島の件の地獄について及ばないままだろう、けど、平和を意志するところに満願はなく、永遠にその灯りを分かち合って行かなくてはすぐに絶える。人は、私は、歴史から何を学べるというのだろう?にもかかわらず、憂えずにはいられない。


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平和公園は、今まで私が訪れたどの公園よりも、圧倒的に落ち着く場所でした。死者との対話は、私を生者とのそれよりも最も饒舌にするのだと思ったのでした。