また終わるために

いっしょにすごしたときめき

【小説】ヴィーのキス ~伝聞と嘘と、本当の話~

ヴィーが言った。俺はマフィが好きだけど、まだ曖昧な感情のままな気がする。愛に関して証明できるまで、なにもしたくないし、どこにも行きたくないんだ。だから、元カノのそばにいたままでいる、と。

学者肌のヴィーは、愛についてグラデーションがあると思っていて、その頂点に愛の証明の成立が存在すると信じているらしい。しかし、どうだろう、フロイトは婚約者にこんな手紙を送っている――”私の苦しみは、あなたにあなたへの愛を証明できないということです。” いわく、私の最近の気づきでは、愛して”いない”ことの証明すら人間にはできないのではないかということだ。愛の存在の証明⇔愛の不在の証明、ではなく、愛の存在の証明=愛の不在の証明、なのではないかと思い始めている。そしてそれは友情や信愛の情ですら、そうなのではないか。

「もうマフィは待ちすぎるほど、待ったよ」私はヴィーに言った。今ここに、マフィはいない。出かけているのだろうか。たぶん、自室で眠っているんだろう。

ヴィーが答えた。「俺は、自分でもよくわかってない、愛について。しかしどうしても理解したい。だから、それまでは・・・・・・」

それまでは、なんだとういうんだろう。マフィはあんなにもはっきりと、ときにはあけすけに、と言ってもいいほどにヴィーへの恋情を示しているというのに。

「だからこそ、」と、私はつづけた、「ヴィー、あなたはマフィと一緒になればいいのに」

「一緒にいるじゃないか・・・・・・!」ヴィーが少し語気を強くした。この上、何を望もうというのだろう、ヴィーは。恋も愛も、明日、その相手がいなくなってしまったら、もう二度と取り戻せないというのに。かりに取り戻せたとして、それは、変質してしまうではないか。遅れずに来て、迷わずにいなきゃいけない。そういう局面が人生には多々ある。ヴィーは迷っている。

「私からこんなこというなんて、って思わないでほしいんだけど」私は、小鳥を掌でそっと包み込むイメージを優先しながら、言葉にする気持ちで声を出した。

「ヴィー、あなたはマフィにキスしたんでしょ、深い方の」

ヴィーが、顔をこわばらせた、そして私を見詰めた。なぜ知っている、という表情はそこから微塵も掬えないほどの、なにか、覚悟――なのか、悲哀――なのか、判別できない固い何ものかがあった。

私は続けた。緊張で、背中が凍る。「マフィが私に話してくれたの。それでも、ヴィーからなにも一緒になろう、とか、好きだ、とか言われてない、とも言ってたよ。ねえ、あなた。マフィはその時笑っていたけれど、今も眠るときは冷たくてかたい枕に頭を預けて、あなたのことについて不安がっているのよ」

「だから・・・・・・キス、したんだ。マフィに」ヴィーがダイニングのテーブルにそっと手をやって、答えた。私は冷たい水が欲しくてたまらない。口の中が一気に引き潮になった心地だ。

「だけど、マフィの枕はいまだに冷たくて固い」私が続けた。

マフィ、とヴィーがささやいた気がした。口許が少し動いたから。私たちは手にグラスを持って冷たい水をそれぞれ飲んでいた。さっき、ヴィーが私にもウォーターサーバーから注いで、手渡してくれた。ウォーターサーバーは、「温水」「冷水」とあって、電気代を節約したいからといって「温水」のスイッチを切ると、衛生上よくないというのを最近知った。それからは、ケチ根性を捨てて、ずっとスイッチを入れっぱなしにしている。だけど手遅れだ。私のグラスの水に、白くてなんだかふわふわしたものが浮いている。かまわず、飲み干す。もう慣れた。

ねえ、ヴィー。人間って、本当に不合理で、非論理で、利己的よね。でもそこに愛があれば、ひとりの人間をいっとう強く、しなやかに、やさしくすることができるのよ・・・・・・。だから、愛と矛盾はとても相性がいいのよ。男女って、もともとそれぞれに対して矛盾している同士だものね。

「ヴィー・・・・・・」私は、声をかけた。ヴィーが今にも死んでしまうんじゃないかと急に不安が私を襲ったから。