また終わるために

いっしょにすごしたときめき

所有とはなにか

まず結論からいえば、所有とは眼差しであり、特に私が最近絶賛気にしまくり中のSNSにおける所有-被所有と眼差し-身体性について、考えたことをメモしていこうかなあ~と。

【目次】

SNSにおける所有-被所有「身体性と眼差し」
②セクハラはなぜキモイか
③キモくないための必要条件はなにか

①: SNSやインターネットにおける身体性は皆無と言ってよくて、もしあるとすれば眼差しというものだけじゃないかというのがわたしの持論。ということは、そこには、所有-被所有の関係が生じ、たとえば、だれか他者の厚意がキモイと感じる場合は所有-被所有の承認欲求が相手から感じられるからじゃないかなと思うのです。つまり、相手を所有したいという意志に、承認欲求が加味されると、途端にキモくなる。しかも、SNSやインターネットの身体性は眼差し=所有-被所有という関係性に発展しやすいので、キモイ→拗れる/拗れた、という認知に陥りやすい。SNSやインターネットにおける所有に関しての結論はまあこんな感じです。

②:次にセクハラについてなのですが、セクシャルな行為というのは、そこに所有-被所有の両立があって、つまり相手の承認がなされているという看做し(=予断)があると思うんですよ。「まあ俺だからいいだろ?(キモイ)」みたいな。で、それが相手に所有-被所有の関係性の強要と承認の強要があるので、キモイ、となるんじゃないかと思いました。

③:キモくないための必要条件はなにか、ということですが、まあ相手との関係性にもよりますし、あれですね、「この人なら所有-被所有の関係に関する承認をする」という認知が相互に許容されているというのも大事ですよね、ごく当たり前のことを言ってますが笑。

ただ、芸術は、一方的に所有-被所有を許容していると思いますね。つまり、受け手側と発信側=作品、の間を絶えず所有-被所有をぶるぶると行ったり来たりして転移している状態であることが、芸術の所与だと思うんですよ。で、その芸術性は、所有-被所有を受け手に許容しているので、孤独に呼応しやすく、しかも優しい。芸術が孤独に寄り添うというのはこの謂だと思いました。

ありがとうございました。