また終わるために

いっしょにすごしたときめき

かわいそうなあのひとを救いたくない

私には母親がいつも罪悪感とみじめさを刺激するほど気の毒な存在だから、もうかわいそうなその人を認めるのはくるしいのである。

これ以上に母親のことをかわいそうだと思いたくないし、かわいそうである証拠をみつけたくもない。美しくてつよいは母親の姿をさがしてる。もうどこにもうけいれられなくてもいいから、その姿と証拠だけでも。

罪と罰

金欠でろくに食事してないからか、栄養不足で鬱がひどく、しかも明日から新しく仕事が始まるという圧もあって、苦しい。落ち込んでいて、居てもたってもいられない。人がおそろしい。今美容室にいるのだけど、こわくてたまらない。

どうしたんだろう。Twitterのし過ぎやろか?あれは異次元で承認欲求が増幅され暴走するから、さびしい孤立感に呪われる。ソウルジェムが汚れてSAN値がまずくなる。私は、とにかくどこかへ逃げたかったんだろうな、明日の仕事始めのプレッシャーを過敏に感じたから。気の毒な私やな……。

今までの私の職場でのおこないやふるまいから自己評価しても、良くない事しか起こらないんじゃないかと不安でしかたない。私は、罰を受けるんだ……というここちだ。

なによりもゆるせないのは

苦しみや悲しみの過剰で私は自分のそういう抱えきれなかった感情を、快楽を手放すことで相殺したつもりでいたのだけども、それは大いに見当違いな方法でとてもとても苦い、不能感と不全感のみ手元に残ったのだった。

裏切られた青春の姿こそ、今の私そのものなんだが、私はもう再起不能なのだろうか?何よりも許せないのは出来事でも、父親や母親でも、まして神や人生でもなく、私はそういう動けなくなった事実が許せない気がした。そういう自分自身を許せずに来たのだった。

受け入れて、変えられるのは変えてみる。今ならなんとかなりそうだと思う。

もう済んだことだと決めつけてきたけど、不能と不全は、御免なんだ。ただ、そう思うんだ。

感情、というできごと

私は私の感情をなるべく意識しないように生きることで、自分を守っていた。とてもつらい思春期だったし、あんまりにも苦しくてかかえきれないほどの悲しみやつらい気持ちがあったから。

だから、そうすると、楽しいはずの快楽まで逃げていってしまい、私は発展しなくなったんだよ。今もそう。苦しさを味わわないようにすると、成長のための楽しさまで無効化されて、私は一体なんなのか、とエニグマに陥る。そして、それはなかなか逃れることの出来ない落とし穴だ。

私は夢中で英語を勉強していたあの頃に戻りたいような気持ちもしている。つらくて、楽しかった、あのころに。ただ、もう戻れないから、仮に手に入れる何か別の新しいものがあるとすれば、違った形で同じふうな快楽かと思ってもいる。そして、それで、いい。

今も私は、感情を見詰めないようにしている延長上にいるのだろうか?感じることをタブーとされていた頃の、続編でしかないのだろうか?

喪った意味、あるいは父親はいるが母親がいないこと

人生や、生きることの「意味」なんて、本当は無いことをわかっているけれども、あえてその言い草を採択して言えば、私は得意科目の英語を頑張っても生きる意味なんてないんだという自覚をある瞬間してからというもの、なんとなく鬱々と過ごしては、英語に対して違和感をおぼえつつ生きてきた。

「英語をがんばったところで、私の不完全さはかわらないし、意味無いでしょ」というつらい自覚。どうしてこうなってしまったんだろう。

父親を、倒したかった。私を傷つけ、いびり、認めないその相手を。

今はもう幻のような過去になりつつあるが、影響は悪いままでしかも大きい。どうしてあのとき、受け入れてくれず、認めてくれず、ケチつけられていたのか、それは私のせいなのか?わたしが不完全で歪な存在だからなのか?どうして?生きる意味を喪った気がした。つらかった。母親がいない、父親がいる、ただそれが、もうつらくてたまらなかった。

信じることを教えてほしい、もう一度。

期待の裏には失望しかないですよねえ

疲労と憂鬱と孤独感が胸に嵐を呼んでいて、頭の中はむしろ静か、そうでなくとも、少なくとも私は表面的には大変静かだ。

つらくてゆううつでさびしさをおぼえると、私は買い物へ出掛けがちらしい。今日買ったものは、必要だと感じたから購入したのだけど、ボランティア活動用のサブバッグと運動用のレギンスだ。そんなに無駄使いしたとは思わない。

私は上の空で、もうひとつの上の空を探しつつ、街を徘徊した。どこに行っても上の空を見つけては、また次の上の空へと飛び付いていく。乗り換えるように。

安定剤が効きすぎているんだな、と思った。それにしても私はこの街の静かなる闖入者だ。闖入者、という音感が面白くて今どうしても言いたかったんだ。ちん、という鈴の軽やかな感じとは裏腹に、存在感が非常に静的だ、この言葉にはそういう逆説的なところがある。

信じることをもうつらくなって、する気力が無くなった私のかつての過去に気づいた。私は完全に完成させたい自分ばかりに夢中で、期待を載せていたのだが、なかなかそれが上手くいかず、父親からは「お前はアホなのか賢いのかわからないわ!」「けったいな子だな!」と、傷つけられてきてばかりだったから……。戦わなくていい相手を戦いの相手に選ばないと、前に進む燃料が生成できない時があると思うが、誰にでも、そう、あるだろうと思うが、そういう時代だったんだ、私にとっては。つらくて過酷だったな。汚れて傷だらけで、傷んでいびつな自分に優しくできずにいて……そういう頃だった。

今でもいびつな自分にはうまく優しくできないけれども、あの頃よりはずっといい感じにはなっていると思う。なのに、私はまだ、というか、もう一度信じてみることはこわくてなかなか出来ずにいる。信じると、期待の違いもうまくわからない。どうして私は父親を殺さなかったんだろう。こんな事なら、きっと彼を亡き者にした方がマシだったと思うくらいには絶望的な気持ちでいる……。期待の裏だけでいいはずの失望が、信じる気持ちにもあるという誤謬というか、誤解、誤認。私は自分に投資や投機がもうできない気がして泣きそうなんだ。どうしても欲しいものがあるのに、それに対して私はもう無力で無気力で、不能だと烙印を他ならぬ私自身の人生から押された気持ちがするから。

結婚=婚姻契約の就業

私たちは労働に関して、時間を買ってもらっている/時間を売っている、という意識でいないと、搾取される一方だという危機感を私はいつも強迫観念みたいに持っている。しかし、時間を買ってもらっている/時間を売っている、という意識は、ほとんどの人には無いにみうけられ、かつ、その重大さを分かっていないように感じるんだよ……なんで?ここに、日本の常識とされる労働の美徳という落とし穴がある気がした。私にとって、それは本当に恐ろしい。

結婚は、たしかに契約であって、しかもハローワークに行って見つけるものでも無いし、あの人に就職したの!なんて言い草は、漫画でしか見かけないものの、私は思うんだ、主婦業というものは、タフな就職だと。なぜなら、契約のもと、家事という労働をするし、それは間違いなく労力なわけで、賃金が発生しないともいえるけれど、やはり時間を費やす=機会の逸失という点では、一般企業への就業と変わらない。この点が見逃せないところ。

機会の逸失とは、ようするに、独身やひとり身ならありとあらゆるペナルティを抜きにしてできたあれこれができなくなるという点で、結婚は契約=家事などへのパートナーへの就業、というインディビジュアリズムを忘れたら、それこそ女性は搾取される一方ではなかろうかと思うんです。

いかがですかね?

職業訓練校の思い出

職業訓練校で、書類提出の後、面接官に色々確認と尋問を受けた日だった。

まず、来る人全てスーツ姿なので、なかなかシックではあるけれどもワンピースの装いである私は、なんだか嫌な予感を覚えた。

特にお咎めはなかったものの、少し場違いだったらしく、スーツを持っているかという確認をされた。別に落選してもいいんだけど、それでも受かればやはり嬉しいんだ。

面接官は、しきりに「国のお金で教育されるのですから」「就職を目的として、履き違えるな」と強調していた。それは私を滑稽な存在にしたて、しかも窮屈にもした。「貴様は国が戦場に行って人を殺せと言えば殺すタイプだな!?」と内心考えて小さいユーモアを思っていた。面接官は、中年を越した頭が固い世代にさしかかったおじさんだった。

毅然

こんな夢を見た。

父親がなんだか狂っていて、私に暴力を振るおうとしてきたが、私は習った剣道で返り討ちにした。父親は気絶した。私はその脈を首元で確認するところまで如実に夢を見た。

いつもと違う。いつもは、私が父親を例の旅行土産の木刀を両手にして怯みつつ殴り倒せず身体が竦むところで目がさめるのに。

なにか私の中で毅然として決まったものがあるみたいだと感じる。それが何かはまだずっと先になってわかってくることという霊感がある。

先日、父親と診察室に入って話し合ったことも関係していると思う。

ゆっくりと手放す予期不安 ~立志編~

もうすぐ私は就業する、と思う。と、同時に学校にも通い始めてとても忙しく時間が惜しくなるんだと思う。

私は例の父親の嫡子として誕生した自分を過失の存在だと思っていたのだが、それと同じく父親のついていけない歪さを取り込んでしまった私自身を是正するかのように、指導者の粗を探しては、人生をやり直したりすることを心底求めていた……渇望と言っていい、クリシェだが。

組織や団体のうちにいて、指導者に対して粗探ししてしまうのは、予期不安や私のヒステリーの一種だ。人は師を間違えるとその予後が非常に悪くなる。だから無理もないが、そろそろその気持ちを手放して、信じることの風を先頭で感じてみたい。さぞ気分がいいに違いない。

このことについては、今後も考えてみたいから追記すると思う。