また終わるために

いっしょにすごしたときめき

にゃん

文章を書き切ると生きててよかったと実感できるので、軽い躁状態になって、たとえばお洋服を10000円以上注文したりしてしまう。実際今してしまった。

躁状態になると、フォロワッサンに迷惑かけてしまったことがあるから、手痛く負けているにもかかわらず私は取り憑かれているみたいに、なんの金銭的報酬もなく、ただ絶望も希望もなく、書いてゐる。踏みつけられても、蹴られても、だ。

ある意味すごいのは、その人に無報酬で執着するごとく力になろうと篤実になることだ。私にはできない、と考える。1人の生身の人間にまったく興味が無いから、あるいは、興味が湧かないから。不感症と言っていい、私に関する事実だからしょうがない。

ところが、私は対象が、マスになると話が違うのである。ボランティア活動はひとえにそれに由来するのだろうと思ってる。わからないけど。友情か、信じられない、水ものだと思えて。人がこわい、しかたない。これが私だから。個人よりも、正体がふわっとしていて生身を感じさせないものなら、なんとか。

狂人だ、そう思う。自分でも笑える。けど、それが個人の、一人の人間に対する篤実さ、マスに対する篤実さ、この差異。なんだというんだ?言えるものなら言ってみろ。