また終わるために

いっしょにすごしたときめき

幸せになろう

もし、「金銭的にも立場的にもふんだんに保証されて栄光の中生きる」幸せボタン、みたいなのがあったら、押すかな?と自問したけど、私はたぶんやけど押さないんですよね。

今の暮らしで努力していってる事が何なのかは自分でもあんまりよく分からないけども、それでもこの暮らしというか日常を壊されるのが怖いという気持ちが先立って、そーゆーボタンの前で立ちすくんでしまうんだと思うんですよね。

けど、幼い頃の私なら躊躇わずに押す選択をしたと思う……そのくらい野心もあったし、なにより現状にとてもとても泣かされてばかりだったから、とにかく早く抜け出したいと思っていたから。

漱石『行人』は、最後ぐうぐう眠っている主人公の側で手紙を書いているシーンで終わりますよね。たしか……「起こそうか起こさないか、迷う。これでもいいと思うから」みたいな述懐をしてたんだったかな。ちょっと調べてみる。

「兄さんがこの眠りから永久に覚めなかったらさぞ幸福だろうという気がどこかでします。同時にもしこの眠りから永久覚めなかったらさぞ悲しいだろうという気もどこかでします」

斑に幸福、斑に不幸。これでいいと漱石は言ってるんでしょう、きっと。幸福は何も完成形だけを言うのでなく、むしろ完成されていないものの中にこそある。そう思う。

だから、私は完成された「幸せボタン」みたいなのの前にめちゃくちゃ訝しさと躊躇いを感じてしまうんですね。

自分が幸福になることこそ最大の(これまで過去に出会ってきたどうでもいいはずの人間や毒親=父親たちへの)復讐と思ってきたけれど、そんなに拘らなくなった、というのもある。だけど、幸せになろう、という意志がないわけではないんです。

幸せになろう、だけど、変わり映えしない明日を下さい。