また終わるために

いっしょにすごしたときめき

たとえばの死

死ぬことは遠い未来にあるのでなく、最終的に待っているものではなく、私の手の中にあるというのが何となくわかってきた。

たとえばの死だけども、非常に衝動に近似した動機というか、それは"はずみ"でおこる事なんじゃないかと思う。たとえば……たとえば、駅のホームで電車を待っていて、隣に並んできた人の服装が気に入らなくて、線路に飛び込む、ということがあると思う。私の希死念慮は、そのくらいやわらかい日常の顔をしていて、ゆるキャラみたいなのに、死の顔を持った物騒な一面がヒヤリとみえる。

自分がどのくらい死ねば、新しい希望を持つことが出来るのだろう。