また終わるために

いっしょにすごしたときめき

fruits of serendipity~テクストの織りなす音楽とはなにか~

《私にとって、文章をしたためる行為は、天啓のヒラメキというよりはむしろ、罪の延長に近い。しかも、罪滅ぼしにもならない。その先もまた、罪が伸びている。》

⬆以前、このように述べたが、罪の延長とはなにかというと、これは楽観的であるものの割と真面目に思っているのだが、要するに罰の閃きなのである。

罪の延長=罰(の閃き)。これは、なかなか、ありそうでない。なぜなら、罰の閃きだなんて、人はそれに中々ありつけないからこそ本当に罰の最中をさまよい、ためつすがめついきるのだから。まあそれは私が文章を書く時の様相とよく似ているのだけども。

私は、いろんな複数の影から声を聞かされ、それをセリフにしたり、モノローグや形容にしたりする。ポリフォニックな脳内再生で、なかなか忙しいが、これがけっこう楽しい。時々知らなかったひとの言葉まで私が手に入れることもある。