また終わるために

いっしょにすごしたときめき

風呂嫌いから考える虚無

私は風呂嫌いをこじらせていて、どうしても毎日の入浴が苦痛でたまらないのである。うつ病の人にはありがちらしいのだが、毎日必要に迫られるので本当に困っている。どうすれば?

というか、私の風呂嫌いの原体験はいったい何なんだろうか。考えてみれば、小学校高学年のころから入浴が嫌でこじらせていた。そのころは、父親がソトに女の人を作って、深夜過ぎても、というか何日も、家に帰ってこなかったのだった。

私は父親をそのころから信じられなくなった。まあその話は、ちょっと置いておくけども、入浴について思うことは、「どうせわたしは死ぬんだから、入浴したところで・・・・・・へっ!」という気持ちなのである。つまりは、入浴に意味を見出せないのである。しかし、入浴を済ませた後は必ず清涼とするし、さっぱりすっきりクリーンな気分になる。にもかかわらず、にも・かかわらず、だ!風呂が怖いし嫌いだしつらいのである。

前述の、「どうせわたしは死ぬんだから」という点が、気になる。どうせ私は死ぬんだから、と言えば、ほとんどのことが虚無になる。さっき考えてたんだけれども、死=最果てにある虚無、なのだとしても、というよりも、その図式自体に意味がない気がする・・・・・・けど、私の場合、うつ病をこじらせていると、死は最果てにある虚無であり、入浴を拒むのに充分すぎる理由になるのである。←これがいけない。

風呂に入るくらいなら、死にたい、とわりと毎日本気で考えている。バカみたいなのだが、本当なのである。今回、風呂と虚無について、風呂嫌いから虚無にアプローチして考えてみているが、どうしても風呂嫌いが治りそうもない。生きていて、死がその中に内包されているとはよく感じるものの、風呂に入るか、入らぬか、それが問題だ。という心持にいつもなる。風呂に入るとは、生のほとばしりなんだ。それが恐ろしくてたまらない。