庵野秀明は、まずアニメーションの映画作りから始めて、実写にも手を出したけど、そりゃ当然だなと思った。絵で構図やリズムを学んでるんだから、実写ができないわけが無い。
物販に売られてた選ばれた少女たちのハンカチ、全3種買いました。
「あなたは死なない。私が守るもの」
「バカまきの」
「だーれだ?」
庵野秀明は、まずアニメーションの映画作りから始めて、実写にも手を出したけど、そりゃ当然だなと思った。絵で構図やリズムを学んでるんだから、実写ができないわけが無い。
物販に売られてた選ばれた少女たちのハンカチ、全3種買いました。
「あなたは死なない。私が守るもの」
「バカまきの」
「だーれだ?」
あの人から恋人として私が選ばれなかったのは、なんだったんだろう、と不思議~な気持ちになることがあって、一抹のさびしさもやってくる。
私はあの人から本心で・本気で、嫌われていたのだろうか・・・・・・、あるいは、そう装いつつあの人は私を優先してくれたのだろうか?つまり、あの人自身といる私はきっと幸福にはなれない、とあの人が見切ったのか?それが表に出て私にわかったらわかったで、きっと私はあの人を、今もそうだけど、なかなか忘れられない(忘れなくていい)から、追ってこないようにあの人はあえて冷たくしたんじゃないか、と思うことがある・・・・・・思うのは、自由。だって、私の心は私のものだから。
ありがとう、って言える日がきたらいい。
あの人も、私も、お互いに対して。ありがとう、と。その日まで、終わらない、デジャヴュを何度も繰り返す。もう一度、デジャヴュ。
何度も姿を変えて 私の前に
舞い降りたあなたを今日は 探してる
【まきの周作】
例えば、花盛りの晴れたある春の公園で、例えば、雨の日の静かな匂いのする午後の図書館で、例えば、一枚岩のような真っ青な快晴の空に、例えば、瞬きするような木漏れ日のもとに、私はあの人の姿を見る気がする。歌の一節にもあの人の声の響きがある。
何度も繰り返すデジャヴュ。鏡の中に1番愛しい人を見つめる眼差し。
叶うばかりが恋じゃないんだ。未来の川の輝きの向こうに、あの人の身投げを見る。息を飲む瞬間、愛しさと美しさの混ざるとき、私はたちうちできない、命の爆ぜる飛沫。
謝らなかったのは、振り返らなかったのは、私をかえりみないのは、たぶん時のゆりかご、あの人の手がゆっくり命を揺さぶる。
いつか、ありがとうと言える日まで。また終わるために。
水色に近い薄青色のことを、サックス・ブルーっていいますよね。伏字にすると、〇ックス・ブルー。一気に卑猥度がupする。〇のなかにこれだけはあてはめちゃったらまずいっていう文字が、サの形に似ているから、緊張してたんでしょうね、発音的にも誤解を招きやすいでしょうし。
以前、サックス・ブルーのワンピースをある服飾のお店にお取り寄せお願いしたことがあったんですけど、取り置きしてますよ、っていう連絡が来たから店舗に行ったんですね。そしたら、若々しい女性店員さんが、応対してくれて、私の取り寄せ伝票に書かれてる「色」の欄を読むときに、言い淀んでこちらをじっと気まずそうな半笑いをしながら見つめてきたんですよ。それで、「ああ、〇ックス・ブルーが気まずいのか」ってすぐにピンと来たんですけども、ちょっとその店員さんの面映ゆい感じが面白かったんで、とぼけてたんですよね。「えっ、と・・・・・・お色、は・・・・・・、あの・・・・・・(ごにょごにょ)」みたいな。楽しかったけど、だんだんちょっとかわいそうになってきて、とうとう
「あ、水色の分です」
って自己申告したら、おねえさんが(そっか!そう言えばよかったんだ!)っていう表情をありありと見せたんですよね笑。それで、おねえさんが、
「はい!そうですね、水色!」
って、本当に安堵したらしく少しのうれしさと恥ずかしさが一緒くたになった声で(わりとはきはきと大きめの叫びみたいに)言ったんですよね、私に。で、少々お待ちください、って言って倉庫に行って、〇ックス・ブルー色のワンピースを持ってきてくれました。会計の時変によそよそしい無表情だったから、人間のコントラストって強烈だなって感じたよ。
さっきから伏字だけど、サックス・ブルーのことだからね?
店員のおねえさんみたいに勘違いしちゃ、だめだぞ?
たちまちにわたしは、わたしの欲望を、無力になったこの対象からわたしの欲望そのものへと向けてしまうだろう。わたしが欲しているのはわたしの欲望であり、恋愛対象というのはそのだしになってきたにすぎないのだった。
いつの日かあの人をあきらめるときが来ても、そのときわたしを把(とら)える激しい喪は、「想像界」そのものの喪であるだろう。それこそがわたしの愛したものであったからだ。愛を喪ったからこそわたしは涙するのであり、特定の彼/彼女を思って涙するわけではない。
【ロマンス・マキノ】
強がりかと思ったものの、特定の彼/彼女を思って涙するわけではない、という事実をやっと肯定できるようにまでなってきた。その通り、と素直に感じられるような。
しかし、思い出して、つまり、自分があの人を見捨てたんじゃないかという気持ちに苛まれては、また苦しんだりするのを自らを処刑にかけるかのようにすることがある。これは、もう一度あの人の無力化を解こうとしているんだ。ようするに恋に恋するとは、そういう事なんだと思う。見捨てられた、なんて言いたくなかったけど、振ったのは確かにあの人の方で、私は・あの人から・振られた側なのにね。恋に恋してるから、何度も無力化を起こしては、また無力化を解こうとする。恋愛は、呪いだよ?
*
しかし、たちまちにしてわたしは、あの人(愛する人)がこのようにして縮小され、還元され、本来はあの人が惹き起こしたものである感情からしめ出されてしまったのに気づき、苦しみを覚えることになる。あの人を見捨てた自分を有罪と感じ、自責の念にかられるのだ。私はあの人の無力化を解こうとする。もう一度苦しむよう、自分を強制することになるのである。
書くことがあり過ぎて、書ききれないという不全感がつねに、ある。困っている。思ったんだけど、本を買う時と同じ自分だったためしが、買ったあとの自分自身にはない。つまり、買う時に読むつもりの自分自身と所有してるのに読もうと思えない時の自分自身とは、別人同士なんだ。恐らく書こうと意志した時もそうで、思った瞬間と、実際に書くことに向き合う(ペンをとったり原稿に向かったりする)瞬間とは、別の私が居るのである。
書けた時は僥倖だ。読めた時も僥倖だ。そんな時の私↓
らんらんるー
誰かから相談事を受けた時に、相手はただ話を聞いて欲しいだけなのに、こちらの考える解決策や答らしきものを押し付ける、あるいは、提案することは、とてもダサいことなんだと気づく。相手の気持ちを汲んだつもりでまるで汲んでいないからだ。それどころか、自分自身としては「他者に有用な」ことをしたつもりになって悦に入ることは、もうすでにダサい。自分で自分をひけらかしているかのようだ。
そして、そういう男性は、女性よりも断然多い。答なんていらないことの方が/無いことの方が、多いにもかかわらず、そういうことをする。たまにスペースやツイキャスにも、いる。
過去にそういう人や場面に、何度となく直面した。真にイケてる男性や女性は、話を聴くだけで、意見や解決策などを押し付けてきたりなどしない。話を聴くことに徹する人は、大切にして然るべき人物だ。