また終わるために

いっしょにすごしたときめき

浴衣からみるエロティシズム

【エロティシズムまとめ】

①エロティシズムとは、(モテと同じく)「気配」である

②エロティシズムとは、隠されていることから「滲む」ものである

③エロティシズムとは、類型であることからの「逸脱」である(おそらく「粋」と等価で)

 

【まきの副音声】

ゆかた着付け教室に行ってきたんですよ。日本ってエロいなあと思いましたよね。

まず、浴衣の着方や扱い方に工夫が随所に見られてそれがコード化されている所がエロティックだなと。丁寧さってすごく色気があるなあと思うんですよね。

で、次に着こなし方がほぼ同じという類型があって、その逸脱として帯の結び方が何通りかあるうちどれを選ぶか、あるいは着物の模様や柄、帯の色など、ちょっとした逸脱と言っていい意匠があることがエロティックですよね。

あと、これは私が感じた最もエロティックなポイントだと思うんですけども、前から見たらきちんと襟?が重なっているのに、後ろは少し抜いてうなじが見えるというのがね……。後ろ姿って、手が届かないし、自分では見えないじゃないですか。そこに隙を作るというね。日本は本当にエロティックだな。

恋愛学がわかる。

精神分析は、人間の世界に対する根本の問題は憎しみであると理解する。なぜなら無力な赤ん坊は、世界から攻撃されると感じているからである。

しかし、人間は他者に依存しないと生き延びられない。生き延びるためには憎しみをその反対物に変える必要がある。愛はこの憎しみが転換されたものであり、二次的なのである。憎しみを愛に変えるのがマゾヒズムなのだ。

 

 

     田崎英明『恋愛学がわかる。』

愛=I は、道徳を知らない

自己愛が足りなかろうが、充満してようが、他者を求める気持ちは破壊を含んでいて、愛とは脳のバグであり人生における事故に近いなとつくづく思う。

私をそこまで望んでくれる人に、何ができるかという視座はもういらなくて、一緒に死ぬしかその人には思いやりとして示せない愛と破壊願望。これは、両立しうる。

だれが正しい愛に興味があるか?

もともと人間の愛は、憎しみから生じてマゾヒズムがそれを愛に転換しただけなのだから。

愛は、道徳を知らない。

【スペース議論】安楽死とこころの時代

安楽死の権利を認めるべきか否か】

昨夜はありがとうございました。私はどちらかと言うと合理性の提示·立証が十二分に出来なかったのですが、まあ楽しかったと思ってます。以下が特に論点となっていた印象です。

安楽死の権利を認めることと倫理を両立させることが難しいから、法整備がどうなるか

安楽死の権利を認める範疇をどう規定するか(たとえば、年齢制限や病気の深度など)

しかし、暗数として安楽死(特に重篤な病気に対して)の権利を認めるという意見を持っている方が結構いることについて私は妥当だと思った。病と闘うってタフなことだからね。

父親×木刀の夢

私の実家には、父親が旅行の時にお土産として買った木刀があって、それを使って父親を殺そうとする夢を私はよく見る。しかし父親は強力でなかなか死なないし、それどころかよりいっそう強くなって私に反撃してくるのである。

あの木刀を供養したらいいのか、どうしたらいいのか……。必ずあの木刀で、父親を攻撃しているのである。しかしそれは失敗に終わる。これも過たず、だ。

私は父親を夢の中で殺そうとはするけど、殺しきる夢はなかなかみない。いつも脅えながら、父親を殺そうと、努力している。

かわいい人

私にとって、かわいい人とは、とびきり好きな人というよりは、なんだか憎めない人のことなのである。

他者はいつも私に脅威的だ。なぜなら、自分自身の行動を逐一気をつけていないと相手の心情やその関係が、ガラリと変わってしまうリスクを含んでいるからだ。たとえ謝罪したとしても、それでよけいに失礼になることだってあるにはあるし、要するに「ごめんで済むなら」という例の金科玉条のとおりなのである。

それでも、許せる関係というのもあるにはあって、だから、憎めない人というのはいつの間にかかわいい人になってゐる。まったく、憎いのに憎めないな!かわいい人!

死へと行進する心臓

植物には心臓(ハート)がない。咲いているだけで生まれては生きている。その様に心臓を持つ人間は、嫉妬せずにいられない。人間は、生まれて咲いているだけで、生きているわけにはいかないから。人間はいやしいから、動かずにはいられないんだ。

私の心臓(ハート)はどきどき、としている。夜眠ろうと枕に頭を預け、耳を押し付けると、不安を煽るかのようにどき、どき、どき……と、きこえる。森の奥でその長が唸るように。砂漠の星の瞬きように。私は死へと、まっしぐらに行進する心臓が妬ましい。生きている者は、自殺者へとたどり着けない嫉妬の念を抱く。私も例に漏れずそうなのである。

 


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花は、生まれて咲いて、輪廻のうちに転生する。人間もいつか、それが何かで証明されたらいい。

猿は音楽を解さない

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何故こんなにも眠いのだろうと思ってはうとうと鬱々していたいちにちだった。

私がキャンプに行った時、夜が明けたら鳥たちが歌っていた。私はその時、悲しいが美しさに心打たれる自己犠牲の恋についての夢ばかりみていた。おそらく鳥たちの歌が私に感応したのだと思う。信じられない美しさの夢だった。

人間と鳥だけが歌や音楽を解する。猿は歌や音楽を解さない。象はどうだろうか……。

眠たかった、今も眠い。また美しい夢がみたい。

ベルセルクについて語るときに我々の語ること ~サバイバーとスライバー~

三浦健太郎ベルセルク』について、ブログで評論してほしいといううれしい要請がフォロワーからあって、私は今、”そうだ!京都へ行こう!!”という心持でペンをとっている。ありがとう!

端的に言えば、『ベルセルク』は、アダルトチャイルドあるある、の顕在化漫画だと思ってゐて、「自分には本当の話であり、ライフストーリーであり、だけど、人に話すと必ず気のせいだよ、と言われるような事柄」つまりは、「気のせいだよ=フィクションや思い込み」と言われる種類の、どちらかというと悪い事実をファンタジーという切り口で思い切って本当にフィクションにしてしまうことで、その悪い事実を現実のこととしてあぶりだしているのである。

とくに、アダルトチャイルドにありがちな、時には自分自身から選び取ってしまった・あるいは、時には自分の背後にある手が伸びて選ばれたマイナスを、なにか一つのただならぬ大きな事柄を”かなえて”しまうことで、すべてのマイナスカードをプラスに変えようと動く情動や行為について、『ベルセルク』は非情なまでに生々しくあぶりだして描いている。

よくここまでアダルトチャイルドの情動がわかるなあ、と感心した、初読の時に。ガッツとグリフィスは、アダルトチャイルドである人物の、両極に位置する同一の自分自身であり、その葛藤に耐えられなくなったさまが蝕という事象で表現されているんだと思う。葛藤に耐えられない状態というのはいわば神経症のことである。

アダルトチャイルドは、おおよその場合において精神疾患に悩まされていることが多い。私もその中の一人である。

ガッツもグリフィスも、どちらもサバイバーであり、スライバー(=成長するもの)という正体からはとても遠くに位置している。ガッツはファルネーゼに、祈るな、という。両手がふさがって戦えないからだ。戦うことを日常にしているガッツ。グリフィスも同じだ。夢のために捧げて、犠牲をいとわない(内心はいろいろあっても)姿勢は、まるでアダルトチャイルドの人生に対する覚悟や夢そのものである。

アーメン。