また終わるために

いっしょにすごしたときめき

なんてこった、少しばかり良心的ではないか!

以前も述べたが、少しばかり良心的であることや類型的一般性というのは、ある意味でとても狂気的なのである。

「フツーってなんだろう」という中学生みたいな問いをためしに出してみよう。フツーについて考えることこそ、最も狂気なんだから。

私は日本の類型的美によく圧倒される。下ごしらえの段階ですでにつねに他者の眼差しへの意識がある。たとえば、能、とかね。舞台道具の用意ですら、黒子たちの動き、姿、格好は類型的だ。類型で圧倒することは最も日本的な美意識なのである。

昨今のアイドル論にもこれは通じるが、ちょっとこの話はまた今度。

愛の告白 ~テュケー~

何でもかでもボーイ・ミーツ・ガール的な恋愛文法に還元しなくていいんだなと思うと、すこし生き方の幅がひろがる気もするが、それはある意味ではとてもさびしいことなのではないかと考えてしまう……私は、ときメモ脳だから。

だからって、しようと思ってするほどエネルギーを使う恋愛はしようとはおもわない。聖家族のような、たがいに子供みたいに孤独をエンターテインメントする同志の仲間だって、楽しい。わたしはそうだった、ある日あなたの名前を知るまではね。

とこしえによきに、そうあれば。さようなら。goodbye Happiness.

なるほど、これまでの幸福を願いさよならしてきた人の化身として現れた来訪者。永遠の友情。同じふうに違った形でまた出会う。

人が恐ろしい

私は来るものを拒んで去るものの背中を押すタイプなんだよ。わかってるんだけど、もう人が信じられない抜き差しならぬ事態になってしまって、そうすることが多い。

誘われても3回くらい誘われてやっと行こう、と決めるからほんとじれったいと思う。

人が恐ろしいんですよ、人の来訪が本当に恐ろしい。

変身

薬が変わって不安が強く出るようになった。はっきり言って、レキソタン6mgごときの頓服でどうにもならないほど私の中では不安が吹き荒れているのである。

こうなると、電車の静かな秩序を無視して叫びたくなるし、私は私のままでは居られないなにか別のおぞましい存在になりそうで苦痛しか感じないのだ。

カフカ『変身』のように明日起きたら役立たずで気味の悪い虫になってしまっているかもしれない。愛する人もなく、愛してくれる人もない、惨めでおぞましい虫。

普通変身とは、上位の存在になることを意味するのに、何故カフカはよりによって虫への変化を『変身』と名付けたのだろう……まるで社会生活失格の烙印や立場を自ら欲しているかのようではないか。それほど労働イヤイヤ期に入っていたのかカフカは笑。ちなみに私はもう何年と労働イヤイヤ期で、これからもそれは続く見込みなのです。悪しからず。

読み込みすぎてしまう、生(き)の声を

たぶん読み込みすぎてしまう私自身のせいだろうけど、Twitterとかblogを読むと生(き)の声だからか、後から精神的にかなりぐらぐらするんですよね。それですごくつらくなるんですよ。

スペースとかで話すとよりつらさはひどいものになりますね。やっぱり私が読み込みすぎてるからだと思うんですけど。本当につらい。

にもかかわらず、Twitterでは呟くし、blogは(なるべく見ないようにしてるけど)読むし、スペースはするし。自分がわからん。なぜだろ。私は何を欲しているのだろう、つらくなるとわかっているのに。まるで蝉時雨の中を真空になった私の心に問いかけるみたいに、そう考えるが、わからない。

立ち止まることは才能

人生では立ち止まる瞬間/時期なんかがあると思うのだけども、それは発展史観からすればマイナスイメージが強いかもしれないが、そうではなくて、むしろ「立ち止まることは才能」だと思うんですよね。天から呼び止められてるわけですから。

それは、抗いがたくて、進もう進もうと願えば願うほど立ち止まざるを得ない抜き差しならぬ事態になることもあるだろうけども、ようするに、立ち止まるとは感性であり、さっきもいったけど、まあその人の才能ですよね。

立ち止まることの逆は全力スルーだと思うんですよ。スルー能力ばかりがもてはやされているからここではっきり表明しておくんだけども、立ち止まることは才能ですよ。皆様、どんどん立ち止まりましょう。

やさしさ

優しさってたぶん相手と距離をとることに用いられるとものすごく政治的(=人付き合いの損得勘定)に有為なんですよね。

だから「優しさは優れている、という漢字を書くね」と本で読んだけどさ、政治的に優れているんですよね。相手の立場に立った言説がなされることこそ、色んな議論の場やディベートにおいて最も強力なんですよ。むやみに感情論をひけらかして我利我利してたら、説得力ないですしね。

不良とは、優しさのことじゃないかしら。優しさとは、距離のことじゃないかしら。なんちゃって。

好きを隙のまま、梳(す)いていく

人からさよならされた時の呪いというものがあるとすると、それはその後も尾を引いてつい、相手を追いかけたい衝動に駆られることと、なおその後も相手への執着や愛情がくすぶってしまうことなのでないかと思う。なぜなら、その人は世界に1人しかいないオリジナルだから、私にとって替えがたいその人は、その人のかたちのままの隙間を私のこころに作ってしまっていなくなるのだから。

その愛のままいなくなったその人の隙間にたびたび立ち返り、私はその人への好きを隙のまま梳(す)いていく。それでいいと思った。その都度、その人をこれまで以上にほんとうに愛することができるようになったのだと感じたから。

自己肯定感ってなんだよバカヤロこのやろ

自己ってのは人生の所与だから肯定も否定も無いだろと思っているので、自己肯定感という言葉に違和感持っているわけだが、ただ一つ気づいたのは、たぶん、いわゆる自己肯定感が高い人というのは何がなんでも自分につき回ってその都度肯定するとかそういう面倒なことをしているわけじゃなく、なんというか、自分との間のとり方みたいなのが上手い人の事を言うのかなと思ったんですよね。

人間には自分の与り知らないところでなされる行為がいわば、愛に関することや教養に関することだと思うので、そのへんの事情に関するモノ·コトをわざわざ認知として取りに行かないというか。そういう所感を抱きました。

ありえないほど近い

ひととひととの距離って、近づいて縮むともう距離とれなくなるじゃないですか。そこをあんまり意識してるか気をつけてないかの人々がようするに私にとって小学生と老人なんですね。

両者ともなんかすごい距離感近いじゃないですか。苦手なんですよ。なんなのその距離感、世界の主役のつもりかよ!?って笑。

おじさんでもおばさんでも、距離近すぎる人は苦手ですね。店のレジで、「コレ温める!?」って、クラスメイトのパシリかよ!?みたいなノリできいてくる店長(おじさん)。いやパシリとかしたことないけどさ。

ほんとびっくりするよね。あと、バス停とかでちゃっかり私をジョジョのスタンド扱いしてくるようなおばあちゃんとかね。「このバス、どこいくの!?」って。エクスキューズもなく。びっくりするわ、ほんと。

なんなのあの人類みな自分の兄弟なんだみたいなノリの距離感。ウケる笑。そのくせ、「うっせえな!」とか言っちゃう無礼な奴もいて、礼儀知らずな時も礼儀にかなってる時も、とにかく近いんよ。逃げたい。