また終わるために

いっしょにすごしたときめき

読み込みすぎてしまう、生(き)の声を

たぶん読み込みすぎてしまう私自身のせいだろうけど、Twitterとかblogを読むと生(き)の声だからか、後から精神的にかなりぐらぐらするんですよね。それですごくつらくなるんですよ。

スペースとかで話すとよりつらさはひどいものになりますね。やっぱり私が読み込みすぎてるからだと思うんですけど。本当につらい。

にもかかわらず、Twitterでは呟くし、blogは(なるべく見ないようにしてるけど)読むし、スペースはするし。自分がわからん。なぜだろ。私は何を欲しているのだろう、つらくなるとわかっているのに。まるで蝉時雨の中を真空になった私の心に問いかけるみたいに、そう考えるが、わからない。

立ち止まることは才能

人生では立ち止まる瞬間/時期なんかがあると思うのだけども、それは発展史観からすればマイナスイメージが強いかもしれないが、そうではなくて、むしろ「立ち止まることは才能」だと思うんですよね。天から呼び止められてるわけですから。

それは、抗いがたくて、進もう進もうと願えば願うほど立ち止まざるを得ない抜き差しならぬ事態になることもあるだろうけども、ようするに、立ち止まるとは感性であり、さっきもいったけど、まあその人の才能ですよね。

立ち止まることの逆は全力スルーだと思うんですよ。スルー能力ばかりがもてはやされているからここではっきり表明しておくんだけども、立ち止まることは才能ですよ。皆様、どんどん立ち止まりましょう。

やさしさ

優しさってたぶん相手と距離をとることに用いられるとものすごく政治的(=人付き合いの損得勘定)に有為なんですよね。

だから「優しさは優れている、という漢字を書くね」と本で読んだけどさ、政治的に優れているんですよね。相手の立場に立った言説がなされることこそ、色んな議論の場やディベートにおいて最も強力なんですよ。むやみに感情論をひけらかして我利我利してたら、説得力ないですしね。

不良とは、優しさのことじゃないかしら。優しさとは、距離のことじゃないかしら。なんちゃって。

好きを隙のまま、梳(す)いていく

人からさよならされた時の呪いというものがあるとすると、それはその後も尾を引いてつい、相手を追いかけたい衝動に駆られることと、なおその後も相手への執着や愛情がくすぶってしまうことなのでないかと思う。なぜなら、その人は世界に1人しかいないオリジナルだから、私にとって替えがたいその人は、その人のかたちのままの隙間を私のこころに作ってしまっていなくなるのだから。

その愛のままいなくなったその人の隙間にたびたび立ち返り、私はその人への好きを隙のまま梳(す)いていく。それでいいと思った。その都度、その人をこれまで以上にほんとうに愛することができるようになったのだと感じたから。

自己肯定感ってなんだよバカヤロこのやろ

自己ってのは人生の所与だから肯定も否定も無いだろと思っているので、自己肯定感という言葉に違和感持っているわけだが、ただ一つ気づいたのは、たぶん、いわゆる自己肯定感が高い人というのは何がなんでも自分につき回ってその都度肯定するとかそういう面倒なことをしているわけじゃなく、なんというか、自分との間のとり方みたいなのが上手い人の事を言うのかなと思ったんですよね。

人間には自分の与り知らないところでなされる行為がいわば、愛に関することや教養に関することだと思うので、そのへんの事情に関するモノ·コトをわざわざ認知として取りに行かないというか。そういう所感を抱きました。

ありえないほど近い

ひととひととの距離って、近づいて縮むともう距離とれなくなるじゃないですか。そこをあんまり意識してるか気をつけてないかの人々がようするに私にとって小学生と老人なんですね。

両者ともなんかすごい距離感近いじゃないですか。苦手なんですよ。なんなのその距離感、世界の主役のつもりかよ!?って笑。

おじさんでもおばさんでも、距離近すぎる人は苦手ですね。店のレジで、「コレ温める!?」って、クラスメイトのパシリかよ!?みたいなノリできいてくる店長(おじさん)。いやパシリとかしたことないけどさ。

ほんとびっくりするよね。あと、バス停とかでちゃっかり私をジョジョのスタンド扱いしてくるようなおばあちゃんとかね。「このバス、どこいくの!?」って。エクスキューズもなく。びっくりするわ、ほんと。

なんなのあの人類みな自分の兄弟なんだみたいなノリの距離感。ウケる笑。そのくせ、「うっせえな!」とか言っちゃう無礼な奴もいて、礼儀知らずな時も礼儀にかなってる時も、とにかく近いんよ。逃げたい。

人付き合いのリセマラ ~諸行無常~

漱石の『三四郎』は、ストレイシープストレイシープ・・・・・・とつぶやいて幕を閉じる。

どこへ登場しても、私はその場にとどまることなく、人付き合いはリセマラだという意味だと思うが、要するに誰もが諸行無常という名の景色変化に惑わされる迷子なのだということかもしれない。

言葉――おしゃべりも、洋服――流行り廃りも、友人――人付き合いも、よく変わる。私はとどまらない。だけど、私だけがその場で浮き彫りになる。周りの変化が激しければ激しいほど私は巻き込まれるのではなく、浮き彫りになるのである。

ひとりじゃ孤独を感じられない。その証左であるかのように。

知らないところでの悲劇の予感

1:00amに目がさめたから、歯を磨いて冷たい水を飲んだ。夢は憶えていない。

遠くでサイレンの音がしている……私の知らないところでの悲劇の予感。1人でいる部屋は、夜が染み込みやすいのか、とても静で私が浮き彫りになる。

父親に会いに行くのがよいだろうと思う……しかし、それはもう少し後でもよいとも考える。意地を張ると窮屈だから、顔くらいは見せたらいいと思っている。

なんでこんなに落ち込むのか自分ではわからない。

憂鬱すぎて死にそう

習い事の宿題を片付けるのと読書のために、カフェまで出掛けたものの、憂鬱で苦しくてつらくなったので、おざなりにして帰宅した。

父親は、癌(ステージ1)になったらしい。「女の人から全部奪って、それから幸せになった男の人は少ないよね、と思ったよ」と、私はお見舞いの言葉を口にした。電話の向こうで父親がなるほどな、と吐息混じりに言った。

私はというと、もうどこにも行けない感慨である。組織で働く社会人にはどうしてもなれない。それは分かってる。だからってそれをなにかの罪などとは負い目に思わない。私みたいな人間がいたって、かまわないのだから。

ただ、憂鬱で死にそうなのである。

知識の膨張 ~知悉しえない本について~

本屋や図書館に行ってよく考えるのだけれども、これだけの本が世の中にはあって、私はしかも読書しては感動するものの、本を知悉することはあり得ないのだろうなという予感に戦慄するのである。たしかに手に取った本を読んで、それで少しは手元に残るものも、あるだろうとは思う。けれど、未知の本は、まだ世の中に私の把握しえないほどあって、それは宇宙のように膨張し続けるのである。知識の膨張、と言っていいかもしれない。

私はそれを、この短い人生のうちでどれだけ手に入れられるだろう?そう考えて、読書行為というものが手に負えない問題であるかのように思えて、とてもつらかった。