さいきん、amazarashi『さよならごっこ』に沼っていて、めちゃくちゃヘヴィロテしている。
この曲を聴いていると、両親が離婚して母親が家から出て行ったことを思い出して、――はっきりいってその記憶は全くないのに、心がひりつくのである。まるで幻肢痛に近い気持ちになる。でも、私にはれっきとして母親が、不在だ。
メロディがさびしくて良い。おそらく夕暮れ時友達との遊ぶ時間が終わって家へ帰宅する瞬間の別れをモチーフに、ハンドクラップでゆっくりリズムをとる。なんていいんだ……!私は、ちなみに、ハンドクラップの音フェチである。
夕暮れの私とあなたを照らす強烈な赤、そこに吹く風が気味悪いほど孤独をすくませる。ふぅー、うー、と言うサウンド。いい。火を見るより明らかだが、間違いなく夕暮れ時のさよならをモチーフにして、「ごっこ」遊びのタイトルと人生におけるさよならが一体どれほど深刻に痛むか、という問いをかけてきている。
じつをいえば、私は邦ロック全体をうまくきくことができず、苦手なのである。
希望というしうねき人生の病。これを捏ねくり回し、結果拗らせ、受容するには死ぬしかないという滅私奉公に近いロッキンが苦手なのである。
しかし……しかし、今日気づいたのだが、まだ希望と、自己·自我を客体しかけているアドゥレセンス、これにはものすごい滋養になるだろうとは思う。だから邦ロックは思春期に出会い、沼ると一生モノなのである。それは間違いなくあなたの財産である。
脱線したが、『さよならごっこ』も間違いなく希望という人生の病に拗れているのである。しかし、さよなら、これは、去りゆくあなたに皮膚感覚持っていかれる出し抜けの出来事なのだから、心情的に非常にさよならの詩情と相性バツグンなのである。よって、私のamazarashiベストは『さよならごっこ』、あとは次点として『自虐家のアリー』なのである。
《君の瞳の深さを覗き見て狼狽える》
相手はもう、強固として別れを揺るがすつもりがない。というか、別れとはそういうものなのである。柔らかい別れなどというものは無い。
私とあなたはたしかにこの地上に存在し、同じ時代に奇跡的に出会った事実があるわけだから、再び会える可能性は無視できない……しかし、もう今はひとたび、そして「また逢う日まで、また逢えない」のである。別れは皮膚感覚全部相手に持っていかれるという痛みの感覚を無視できない。
《さよならごっこは慣れたもんさ
でも手を振ったら泣いちゃった
僕らの真っ赤なかなしみが 暮れる 暮れる
そして夜が来る》
《はじめからそこにある愛情なら
確かめ合うことは無かった
急にもつれあう縁だから
触れる 触れる 心の襟元》
愛を知ることは別れの始まりなのである。これを秋田ひろむはよく知っている。言葉のリフレインで、意味的な吃音、あまりのパトスに翻弄されてる節が見られる。amazarashiによくみられるモチーフだ。
さよならの学者。こういうものに、私はなりたい。