また終わるために

いっしょにすごしたときめき

夜は形容詞がやってきて

空き箱に埋もれた落ち葉みたいに、この部屋は夜になると形容詞がやってきて降り積もり、私は圧倒される。

その日一日の出会いの筒。心の揺れや響きそのものが夜になると形容詞という落ち葉になる。形容詞の群れ。

私は息を飲む思いだ。ときどき、つむじ風が起こって、私の胸を掻き乱す。眠りの糸を辿るようになっても、そのつむじ風はまだ鳴りをひそめない。

あなたを前にすると、私の中でかた·こと、と音がなります。これが夜になると、形容詞の群れとして、落ち葉になるのです。この部屋は落ち葉に埋もれた空き箱みたいです。

風呂嫌いから考える虚無

私は風呂嫌いをこじらせていて、どうしても毎日の入浴が苦痛でたまらないのである。うつ病の人にはありがちらしいのだが、毎日必要に迫られるので本当に困っている。どうすれば?

というか、私の風呂嫌いの原体験はいったい何なんだろうか。考えてみれば、小学校高学年のころから入浴が嫌でこじらせていた。そのころは、父親がソトに女の人を作って、深夜過ぎても、というか何日も、家に帰ってこなかったのだった。

私は父親をそのころから信じられなくなった。まあその話は、ちょっと置いておくけども、入浴について思うことは、「どうせわたしは死ぬんだから、入浴したところで・・・・・・へっ!」という気持ちなのである。つまりは、入浴に意味を見出せないのである。しかし、入浴を済ませた後は必ず清涼とするし、さっぱりすっきりクリーンな気分になる。にもかかわらず、にも・かかわらず、だ!風呂が怖いし嫌いだしつらいのである。

前述の、「どうせわたしは死ぬんだから」という点が、気になる。どうせ私は死ぬんだから、と言えば、ほとんどのことが虚無になる。さっき考えてたんだけれども、死=最果てにある虚無、なのだとしても、というよりも、その図式自体に意味がない気がする・・・・・・けど、私の場合、うつ病をこじらせていると、死は最果てにある虚無であり、入浴を拒むのに充分すぎる理由になるのである。←これがいけない。

風呂に入るくらいなら、死にたい、とわりと毎日本気で考えている。バカみたいなのだが、本当なのである。今回、風呂と虚無について、風呂嫌いから虚無にアプローチして考えてみているが、どうしても風呂嫌いが治りそうもない。生きていて、死がその中に内包されているとはよく感じるものの、風呂に入るか、入らぬか、それが問題だ。という心持にいつもなる。風呂に入るとは、生のほとばしりなんだ。それが恐ろしくてたまらない。

いつでもユーモアを

暗くても、ユーモアがあればいいなと思う。ユーモアはあらゆる理不尽や不条理にたいする唯一有効な方法論であって、それがほんたうにすばらしくよい。

私は自己啓発本を、自己軽薄本だと思ってゐるけれど、さいきん読んだ『愛するということ』というエーリッヒ・フロムのほんは、ところどころ勉強にはなったものの、愛に関することなのにユーモアがなくて辟易したのである。愛はいちばんの人間の希望であるにかかわらず、もっとも不可解かつ理不尽不条理なものであるから、それを語るのにユーモアがなくちゃ、と思ったのであった。

ユーモアはどうあっても、私にとっては不可欠だ。明るい人にもかかわらず、ユーモアがないひとはどこか虚無のようで、つまらない。

人間のこころは肥えていなくちゃならない。

幸福の瞬間たまご

幸福とかそういうものは、本当に卵のようなものだと思う。大切だからといってきつくつかむと割れてしまうし、そっと扱いすぎても気がはってかえって負担になる。

だから、古今東西何万人もの人が語るように、いちばんよいのは、パック入り卵を自転車のかごに入れてがたがたゆらしながら無造作に帰路に急ぐおばさんのように、幸福に接することに決まってる。

家に帰って2,3個割れていても「あら、われてるわ、ま、いっか。また買えば」と気軽に受けとめて、残りの卵を使っていればいいわけで、こういう対し方がいちばん大切である。不幸、というものはすべてほとんど、バランスの不在からやって来る。

 

 

     よしもとばなな

波長、霊長類というか、おしゃべり大好きおばさんの神秘

近所におしゃべり大好きおばさんがいて、毎日かかさず隣近所のこれまたおばさんとしゃべっている。声がよく通るので、部屋にいてもそのひとがまたおしゃべりしているとわかるくらいなのである。

何を毎日そんなに話すことがあるのか謎なのだけど、これはブログに書いたら気分いいだろうなあと思いめぐらして廊下を歩いていたら、やけにおしゃべり大好きおばさんの声が聞こえなくなって、変だと思いつつも、私は夢中でブログ、ブログと思いめぐらしていた。すると、おばさんがいる位置まで来てすれ違う時、なんと視線がぶつかったのだ。相手はすぐに私から目をそらしてまたおしゃべり大好きおばさんに豹変したけども、なんだったんだ、あの一瞬間は。私が彼女のことをブログに書こうと思いめぐらしていたから、何か波長がでたんだろうか。霊長類の神秘を感じた。

私はもう、それは私にはどうしようもできないからと、放念していい

夢を見て起きた、4:00am。

私はインナーチャイルドのメッセージなんていうたぐいをあまり信じないのだが、時々夢を介してそのメッセージがやってくるんだというのは信じずにはいられない。今回の夢はそんな感じだったから。

小学校3年生くらいの私は、弟の栄養状態を気にしていた。とくに彼が栄養失調だったのではないというのに、私は授業参観に来ていた父親に「昼はたんぱく質を食べさせてあげて。肉うどんとか、卵丼とか」などと、自身の授業に遅れているのにもかかわらず、耳打ちしていた。

私は授業に遅れた。国語の授業だった。朗読は大きな声でしたと思う(覚えてない)。どれだけ今の私が大人ならよかっただろうと、自分が子供であることをとても呪っていた。私は自分のことを投げ出しては、父親、母親、弟のことを、なんとか立て直さないといけない、家族の崩壊を止めないといけない、と考え、苦しんでいた。弟のつらさも、私のつらさも、苦しかった。

私は私の勉学を投げ出してまで、家族のことを優先していた。私はなんだったのだろう、子供らしい子供のことをできず、大人のように力を発揮できず。

戦略的いい人

私は、いい人とはよそおいのことなんだと思ってゐて、それはなにも洋服とか外見や身だしなみだけじゃなく、行いそのものをよそおう、とでもいおうか、たとえそれがこころを伴わない偽善だという自覚が”伴って”も、それがいい人という評価や恩として自分を彩る要素にはなりうるのだ。

私は、ボランティア活動を、してゐる。けど、それはなにも義侠心や正義の心からの派生なのではなく、彼氏に裏切られてつらかった心を、新しい縁でなんとかしたいという下心からの行動であった。きっかけは、下心なんだ、要するに。そして、いいことと世間で一般的に評価されていることは、下心があれば、続きやすいのである。

よって、戦略的にいい人を履行するには、下心が不可欠であるといえる。つまりそれは戦略的に下心を持つ=いい人になろう、と、試してみることなんじゃないかなと、思うまきのであった。

だって、「趣味はボランティアです」っていかにも自分をいい人に寄らせる言葉ですやん。言ってみたかったんだよ。

わたしたちが正しい場所に花はぜったい咲かない

わたしたちが正しい場所に

花はぜったい咲かない

春になっても。

わたしたちが正しい場所は

踏みかためられて かたい

内庭みたいに。

でも 疑問と愛は

世界を掘りおこす

もぐらのように 鋤のように。

そしてささやき声がきこえる

廃墟となった家が かつてたっていた場所に

 

 

     イェフダ・アミハイ『わたしたちが正しい場所』

制服が邪魔をしない男子のすけべ事情

結論からいうと、女性が規範や常識に特化すればするほど、男性のすけべは逆説的に衝動として起こるんですよ。たとえば、女性が制服に身を固めていたりすると、それを破壊したい気持ちになるのは、まさに逆説ですよね。すけべは破壊性も含んでいると思うので。

ウィーク・ポイント返上キャンプ

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キャンプ用の必需品を、100均で揃えたけども、準備っていつまで経っても完了したくないよな、っていうくらいには、当日が不安だし楽しみでもある。

他にも必要なものはあるかな?現地で最低必需品(テントとか)は、用意してくれるものの、荷物が多くなりそうだ。

ゴールデンウィークは、私にとって、ゴールデンウィーク·ポイントでしかなく、つまり弱点なのであった。どこへ行ってもお金がかかるし人は多いし、つらかったのである。

ところが、今度の土日は森へ行く。日課の習い事を休んでまでも。ああ、森、何があるだろうか。頭の中にRPGの曲が流れて、スライムに遭遇したらとにかく仲間にするのが大事だな、とか考える。