また終わるために

いっしょにすごしたときめき

ようするに、不幸

2週間ぶりの英会話レッスンに私は、もどかしさとイラつきと、少しの焦りとで、バランスを崩していた。ようするに、不幸だったのである。

ある1人のお年寄りの女性(ヒロミさん、仮名)を初めとして、本当に若さが羨ましくてたまらないんだろうなというふうに、私をトレースしてくるのである(とくにヒロミさん、仮名)。それがまとわりついた蜘蛛の糸のように思えて、もうねえ、鬱陶しくて鬱陶しくて、鬱陶しい、のである。罠?かかってしまったのか、私は?情けない……。

私に嫉妬してくる人間の挙動というのは、だいたい把握しているつもりなんだけど、たいてい嫌悪しつつ私を矮小化して、それでも止まない羨望がゆえに、(それを素直に尊敬として示せばいいのに)逆噴射して嫌がらせみたいに私をトレースしてくるのである。だから、鬱陶しいと何度言っても過言ではない。

ヒロコ、あっっ、……ヒロミ(仮名、老女)は、いつも私をモヤモヤさせる。どうでもいい有象無象のはずなのに。

私が英語および英会話サイツヨになるしか、なさそうね。がんばろ。

死が夢でも、いいじゃないか

中途覚醒したときは、なにかに呼び止められたんだと考えて、たいていブログを書くようにしてゐる。もしかしたら、言葉に呼び止められたのかもしれない。

死が夢でもいいじゃないか、と思った。「私の夢は、死ぬことです」というシンプルさ。あんまりそういう人はいないかもしれない。たとえば、「死ぬときはこうであってほしいです」というのはよく聞くけれど。

彼氏が危篤状態から生還した。悪運が強いから、きっと戻ってきてくれると信じていた。でも、もしも・・・・・・、ということに、少し立ち止まることもあった。私は考えないようにしていた。その”もしも”が現実になってしまうとしても、私が今できることは普段の営みしかないのだから。日常とは、こういう事変の可能性を内包しているがゆえに特別でもある。決して、日常と特別は、切り離され独立した事象ではないのである。

死が夢でもいいじゃないか。けど、彼にはもう少し生きていてほしい。もう悲しいことは嫌なんだ。

死が夢であってほしい。だから、彼の意識が戻らない間、とっても悲しかったんだ。戻ってきてくれて、ほんとうによかった。

欲張りだから

「何か欲しいものありますか、私に出来ることならなんでも言ってください」と、言われた。こういう千載一遇のようでいて、本当の欲望が大きすぎるために何も望めない質問と要請が、恵まれた人生にはあるにはある。これを言った人物は、彼氏のお父様だった。

本当ですか!?じゃあ、最新号のヴォーグジャポンとViViとストライプのロングスカート色違いで2着とちょっと高いリップクリームと香水をいくつかとフェイスマスクのストックと風呂掃除をして欲しいのと部屋に掃除機かけてほしいのと、マッサージ券3万円分欲しいです!……なんて、言  え  な  い。

本当に欲しいものは、言えない。というより、言わないでおく。私は私のために叶える夢を持っておきたい。取っておきのモエ・エ・シャンドンみたいなものだ。あるいは、プーさんにとってのはちみつ的な。

欲望は横溢させておいたほうがいい。混沌としていたほうがいい。坩堝の方がいい。

ドッキリ祖母

亡くなったはずの父方の祖母が、じつは私の与り知らぬところで生きてました、という訳分からないドッキリ設定の夢を見て、うわあああ!……となって中途覚醒することがよくある。

亡くなったんなら、夢の中でも死んでろよ、と思う。私は父方の祖母が大嫌いだし、彼女には嫌われるだけの悪行と業の深さがあるから。

彼女は私の母親をリンチしたんだ……私のこともあわよくばリンチしたがっていた。

なんで夢で「生きてました」ってわざわざ出てくるんだろう?ヒヤヒヤさせやがって……生きても死んでも嫌い。そういう人は生まれてこなくていいよ。輪廻転生も、なし。神様、輪廻転生取りあげといて。

おいおいまただよ

彼がまた4:00amに失禁して酩酊状態になり、私は彼のふらついてものにぶつかる音で飛び起きた。

またか、と思った。またか、と。

以前も彼は薬の飲みすぎと、アルコールの摂りすぎで酩酊状態になり失禁した。その時は救急車に乗せられて運ばれた。入院したのだけど、今回は自宅に待機だ。

もう疲れたよ。学ばない彼もそうだけど、私は彼の母親でもないのにこんな彼の面倒をみたりして。

疲れた。もう、疲れたよ。

彼の異変はまだ続く

帰宅してすぐ、彼の異変に気付いた。私は1泊2日のキャンプ旅行に出ていて、昨日帰宅したばかりなのだけども、彼は、ダメージを受けたみたいに(実際私の不在はきつかった、と言っていた)なっていた。

昨夜警察の人が来た。彼のTwitterのフォロワーが彼が変になっていて心配だからと通報したらしい。気の利いた警察の人だったからよかったけど、私はぎょっとした。

彼は今日も変だ。しっかりしろ、と言ったものの、睡眠薬とビールを一緒に飲んだ人にそんな注意自体がナンセンスだ。けど、つい、イライラしてしまって言った、しっかりしろ、と。私が一日遊びに出かけて不在だっただけでこんなにもろくなってしまうのが私には耐えがたい。もう少し芯のあるひとだと思っていたのに。

彼は薬物依存(イリーガルではない)の気があって、それでも半年近くはクリーン(薬物乱用のない状態)が続いていた。なのに、眠剤飲んで、ビールとは・・・・・・。自分自身の過去に復讐されているのか、彼よ?

夜は形容詞がやってきて

空き箱に埋もれた落ち葉みたいに、この部屋は夜になると形容詞がやってきて降り積もり、私は圧倒される。

その日一日の出会いの筒。心の揺れや響きそのものが夜になると形容詞という落ち葉になる。形容詞の群れ。

私は息を飲む思いだ。ときどき、つむじ風が起こって、私の胸を掻き乱す。眠りの糸を辿るようになっても、そのつむじ風はまだ鳴りをひそめない。

あなたを前にすると、私の中でかた·こと、と音がなります。これが夜になると、形容詞の群れとして、落ち葉になるのです。この部屋は落ち葉に埋もれた空き箱みたいです。

風呂嫌いから考える虚無

私は風呂嫌いをこじらせていて、どうしても毎日の入浴が苦痛でたまらないのである。うつ病の人にはありがちらしいのだが、毎日必要に迫られるので本当に困っている。どうすれば?

というか、私の風呂嫌いの原体験はいったい何なんだろうか。考えてみれば、小学校高学年のころから入浴が嫌でこじらせていた。そのころは、父親がソトに女の人を作って、深夜過ぎても、というか何日も、家に帰ってこなかったのだった。

私は父親をそのころから信じられなくなった。まあその話は、ちょっと置いておくけども、入浴について思うことは、「どうせわたしは死ぬんだから、入浴したところで・・・・・・へっ!」という気持ちなのである。つまりは、入浴に意味を見出せないのである。しかし、入浴を済ませた後は必ず清涼とするし、さっぱりすっきりクリーンな気分になる。にもかかわらず、にも・かかわらず、だ!風呂が怖いし嫌いだしつらいのである。

前述の、「どうせわたしは死ぬんだから」という点が、気になる。どうせ私は死ぬんだから、と言えば、ほとんどのことが虚無になる。さっき考えてたんだけれども、死=最果てにある虚無、なのだとしても、というよりも、その図式自体に意味がない気がする・・・・・・けど、私の場合、うつ病をこじらせていると、死は最果てにある虚無であり、入浴を拒むのに充分すぎる理由になるのである。←これがいけない。

風呂に入るくらいなら、死にたい、とわりと毎日本気で考えている。バカみたいなのだが、本当なのである。今回、風呂と虚無について、風呂嫌いから虚無にアプローチして考えてみているが、どうしても風呂嫌いが治りそうもない。生きていて、死がその中に内包されているとはよく感じるものの、風呂に入るか、入らぬか、それが問題だ。という心持にいつもなる。風呂に入るとは、生のほとばしりなんだ。それが恐ろしくてたまらない。

いつでもユーモアを

暗くても、ユーモアがあればいいなと思う。ユーモアはあらゆる理不尽や不条理にたいする唯一有効な方法論であって、それがほんたうにすばらしくよい。

私は自己啓発本を、自己軽薄本だと思ってゐるけれど、さいきん読んだ『愛するということ』というエーリッヒ・フロムのほんは、ところどころ勉強にはなったものの、愛に関することなのにユーモアがなくて辟易したのである。愛はいちばんの人間の希望であるにかかわらず、もっとも不可解かつ理不尽不条理なものであるから、それを語るのにユーモアがなくちゃ、と思ったのであった。

ユーモアはどうあっても、私にとっては不可欠だ。明るい人にもかかわらず、ユーモアがないひとはどこか虚無のようで、つまらない。

人間のこころは肥えていなくちゃならない。

幸福の瞬間たまご

幸福とかそういうものは、本当に卵のようなものだと思う。大切だからといってきつくつかむと割れてしまうし、そっと扱いすぎても気がはってかえって負担になる。

だから、古今東西何万人もの人が語るように、いちばんよいのは、パック入り卵を自転車のかごに入れてがたがたゆらしながら無造作に帰路に急ぐおばさんのように、幸福に接することに決まってる。

家に帰って2,3個割れていても「あら、われてるわ、ま、いっか。また買えば」と気軽に受けとめて、残りの卵を使っていればいいわけで、こういう対し方がいちばん大切である。不幸、というものはすべてほとんど、バランスの不在からやって来る。

 

 

     よしもとばなな