また終わるために

いっしょにすごしたときめき

傷つきやすいまま、大人になったっていいじゃないか

傷つきやすすぎて、生きづらい。

深夜になにかから引き揚げられたかのように目が覚める。そして、洗濯物を干す。夜の紺碧に浸された衣服たちは、きっと乾いた後も暗闇の匂いがするのだろう。私のまとうものは暗闇で、それを人々はいぶかしそうに見つめる。

日常になっている習い事の教室内でもそうであるように、私は常にすでに異邦人だ。なぜだろう、人並みにこつこつとやり遂げてきただけだというのに・・・・・・。悪意が暗闇の匂いに引き寄せられているのだろうか?

言葉がかわいそうになる・・・・・・、いい加減引き止められているわけにはいかない。有象無象のお花畑、で満身創痍。蹴り散らしてやりたい、冷たい花々。

眠る前に、深夜の上空を旅客機が飛んでいる音がした。その飛行機は、星々の間を縫って、どこへ向かうのだろう?底なしの夜空に吸い込まれないまま・・・・・・どこへ?

迷わないのも、恐れないのも、愛するほどに切ないのも、皆、暗い空に沈むビルのライトにかかる溜息に変わる。ふーぅ、と息を吐いても、ビルはずっと立ち並んで暗闇に砂糖をまぶしたように光っている。

そんなに、悪くない。傷つきやすいまま、大人になるのも、そんなに悪くない。今の私は、きっとずっと見分けられるようになっているはずだから。私の見つめるべき世界がいつか、花ひらくように私にやってきますように、すぅっと。

home ~our EXODUS 2022~

もうだめ今日はとてもまいってしまった日だった。

まず英語への覚悟が足りない、と思いながら周りを見渡すと、たちまち逆襲にあって、私がそうなんだ、という風な自覚に行きつくんですよ。初心は、だからどんなときも忘れちゃダメなんだなと、慣れ親しんだ悪魔たちから学んだようなもんですよね。

あと、私はひとなみに学校で習ったことをこつこつとひろってきただけだというのに、それすらもままならない人たちはいったい何しに今まで来た人なんだろうと、とくに私よりはるかに長く生きている先輩方をみていると、本当に不思議でイライラするんですよね。申し訳ないけど、私はあなたたちを英語の先輩と認めるわけにはいかないわ。

初心を忘れちゃいけない。本当にそう。慣れ親しんだ悪魔よ、それは私に教えてくれたあなたの正義です。

私は私を変えるのが怖くて、周りの人々にため息つき続けようとしてきたのかもしれない、だけど、もうそれもやめる。恐れないのも迷わないのも、無理だけど、どこにいたって、私の胸のうちにある初心というhomeは、どこにいたって私が私であることを証明しているから。

深い河、Twitterは

Twitterを信じてる、変な言い草だけど。遠藤周作の『深い河(ディープリバー)』みたいに。

私には生活になくてはならないはずのものになりつつある、Twitterでの人付き合いこそが。Twitterという140文字の1口メモ的ツールが。しかし、そこは、色んなものが玉石混淆で放り投げ入れられ、私もそこに身を投じれば、たちまち皮膚がただれるのである。

Twitter=深い河、ディープリバー。ときには、動物の死骸が、ときには、人の骨や灰が、糞や、小便が、そして、信仰=親交が、夕焼けの煌めきが、ゆったりと含まれながら流れていく。

皮膚がただれたとしても、私は(そしてもしかしたら、あなたも)、Twitterに言葉を、ときには本気の嘘の担保としてみずからを、擲つこともある。それほどまでして、一体なにを信仰(=親交)しているのだろう?よくみれば、河川のその先は、煌めきの中、無限に流れ込んでいく。

痛みが、飛び立つことも、ある。だからあなたを選んだのかもしれない、と予感する。

最近調子どうだい?

企業や組織に所属することは、私にとって被害以外の何ものでもなく、その埋め合わせとして報酬があるのです。だとしても、どこにも居場所などなく、艱難辛苦続きの……やはり、被害以外の何ものでもないのです。

所属していると、その内の誰か1人でも嫌悪の対象になってしまったら、その他大勢のほぼ全ても嫌悪の対象になるのは、私の心の狭さが原因というよりもむしろ、その全てが共犯者になるからだ。止めない、知らない、我関せず、は共犯でなくてなんだと言うんだ?組織の体質がそうなんだから、私はどう考えても組織向きじゃない……。

閑話休題。ここで、私の持っている資格を整理しようと思う。

【すでに所持している資格】

①Word一般 ←めっちゃ昔に取得。Microsoftのやつ。

②英検2級

③日本語検定2級

④登録販売者

⑤ダイエット検定2級

【今後取得をのぞむ資格】

☆英検準1級 ←まずはこれ。

☆ダイエット検定1級

☆化粧品検定2級

日本語教育能力検定 ←1番欲しい資格。狭き門。

資格を獲ることに今は集中したい。

文学チック→文学的→エモい

まきのさんのブログはね、文学チックっていうか……(ここで"チック"ってなんだよというツッコミが入る)、いや、文学的?あ!エモい!んですよ……

 

 

          V

 

 

【まきののひとくちメモ】

ま、文学チック→文学的→エモい、という言葉の位相は楽しかったです。

眠る前の何もかも可哀想病

まぶたを閉じると、眼差しの先にまぶたをスクリーンとした悪魔の影が炙り出される。私はその模様がこわくて、今、これを書いている。

何もかもかわいそう病が再発。優等生なあの子も、理屈一辺倒な憂国のあの人も、いい女演じるのも楽じゃない本音はみせないあの子も、金曜の午後の晩酌楽しみなあの人も。

どの子も「なんにもない」が口癖で、だけど、本当にはなんにも無くない人ばかり。

眠る前の何もかもかわいそう病。今日1日、会った人達は、手作りの銃で撃たれてしまうことがあるんだと思うと……苦しくなる。いやよ、銃の喜びなんて、知らないわ。

まきのまきなの入浴恐怖事件簿

だんだん、わかってきたんですよね。私の入浴恐怖がどこからやってきたのかということが。

まず、父親がヨソの女性との逢瀬から帰宅した夜中の00:00頃に中学生だった私が入浴してたら、父親が帰宅したとたんに恫喝してきたんですよね。「こんな遅くに入って!」って。

それと、私の小学高学年だったころに、父親がまたしてもヨソの女性をこしらえて、家に帰ってこなくなったのと、そのころ母親も実家に戻ってて保護者から完全にネグレクトされてた時くらいから、なんか風呂に入る気力そのものをばかばかしいものだと考えるようになったんですよね。なんでかはわからないけれども。

あとは、なんだろ。ま、母親の不在も御多分に影響しているとは思うのですが、やはり「もともとは存在していた人の不在」や、「家族団らん」なんかが想起される、生のほとばしりとしての入浴、あるいは風呂場というのがもうたまらなく、私の孤独を屹立と顕在化させるのがつらいんでしょうね、私としてはね。

で、ここまでわかってて、それでもまだ入浴が怖いのは、なんででしょうかね。母親が不在だからかなあと思うんですよね、一番輝いてた頃の、具体的にいうと20代後半から30代までの母親の、不在が今も響いているのかな、と。もう二度と家族団らんには戻れないし、戻らないし、戻ったところで・・・・・・。私は母親をいろんな意味で、今たとえ一緒に時間をたくさん過ごしたとしても、喪ったままなんだろう。その苦痛が、入浴恐怖になっているのかもしれない。

母親を、もう一度そっと思い出のゆりかごとして抱きしめる。そうしたころに、私の入浴恐怖は薄れていくといい。しかし、これは、自分自身ひとりではどうにも克服できなさそうだから、とにかく、Drに先述の分析を相談だな。

有機的な支持としてどの言葉を選ぶか?

天才とか、才能、といってしまえば、相手へのりかいやつながりを裁断して評価するから、ある意味楽な道なんですよね。

私はそういうのが、言うのも言われるのもちょっと苦手で、もしそれらの言葉を採用するならかわりに「素晴らしい!」とか、テクストを走り回らせて、すごいすごーい!と発話していることのほうが愛を感じるんですよ。なぜなら、天才とか、才能、というものは、その人本人の独力でなく、所与の問題になる言葉だと思うから。

有機的に素晴らしい人を支持するなら、愛と理解を接続していることが大切になる。だったら、私は、犬みたいに転げまわって、すごいすごい!と語彙をなくしているほうがずっと好きです。

頑張りません、勝つまでは

頑張って、という声かけは時としてプレッシャーにしかならず、決して相手に寄り添う言葉になりえない場合もあると思うんですよねえ。

もし頑張って、と声をかけるのなら、「応援しているからね」あるいは、「もうあなたはよく頑張ってるよ」と言いたくなる。私は相手を突き放す言葉を言うと孤独を自分が感じる呪いにかかっているので。

自分がもうすでに頑張っているよ、とは言いにくいかもしれない。頑張っているね、というパロールは、他者に認められていてこそのものだと思うから。でも、もういまどきは自分から自分にたいして私頑張ったよね?と確認してみていいかもしれない。

頑張るぞー!と、自分にはよく声をかける。朝焼けの空に向かって、その地平の向こうにいる自分自身のためにだけの、応援。

だけど、なにもしないでいることも、勇気なんだ。だから私は言う。

頑張りません、勝つまでは。

良心的な、あまりに良心的な

PM16:00。入浴。このくらいの時間に入浴してしまうことがもっとも好ましい。

私は良心的なブログというものを、どこか狂気を内包しているように思えて恐ろしくて読めないのである。だから、迷った、この文章をはたして書きあげてしまってよいのかと。

もう夏が過酷にやってきて、激情のような気温上昇を観測している。私はそれでも生きていくのだろうなと、湯沸かし器の沸騰を待ちながら考えた。冬になれば今日が幻のように思えるという事の人間の軽薄さ。それを思い、そして今日の暑さも過ぎ去れば忘れるのだから。忘れるという事は、もう一度出会うための可能性なのである。

他者のブログが恐ろしくて、読めない。入浴が恐ろしいことのように。べつに、それで、かまわない。